「太守?」

 

  一刀は提案をしてきた――酒家で出会った――リーダー格の青年に、ほとんど鸚鵡(おうむ)返しの様な形で応える。

 

  ライトブルーとライトグリーンの入り交じった髪の幼い女の子によって一気に祝杯ムードを崩された街の人々は、再び一気にその歓喜の感情を爆発させる。

 

  義勇兵として参加した人々もそうでない人々も、口々に「そりゃいい」等々賛同の意を表す。

 

  盛り上がる人々を他所に、一刀は顎に手を当て考える。

 

(いいのか?)

 

  街の人々が俺を頼ってくれているのは手放しにはムリだが、素直に嬉しい。

 

  だが、太守といった名のある地位に民衆から推挙する声がどんなに高まろうとも、上――この場合、直轄の上司は『州牧』と呼ばれる役所の人――の許可なくそんな事をすれば、逆に目を付けられ、街全体に必要のないペナルティが加算されてしまうンじゃあ?

 

  いや、そもそも――――

 

「あの……この街――――巴(は)郡に、太守様はいらっしゃらないのですか…?」

 

  一刀の抱いた疑問は張三姉妹の長女――――張角こと秀麗によって街の人々に伝わる。

 

  その質問に人々は一様に険しい表情を浮かべ、中には歯を強く噛み締めるあまりギリッ、と奥歯の欠ける様な音を響かせる者までいた。

 

  そうして、生まれた沈黙に秀麗は身を縮こまらせ、恐縮しているとリーダー格の青年が憎々しいといった感情を孕んだ声で秀麗の質問に答える。

 

「奴等……賊が襲撃してきた途端に、兵士だけじゃなく食料まで持って、自分たちだけで逃げ出しやがったンだ!」

 

  チクショー!

 

  そう最後に吐き捨てる様に付け加えながら青年は表情を歪める。

 

  他の人々も逃げ出した前の太守に対する不満をぶちまける。

 

「ふざけるな!!」

 

  しかし、最も大きな覇気を放ち、不満というより嫌悪の感情を露にしたのは街の人々ではなく、関羽こと愛紗であった。

 

  愛紗はサイドに纏めた一本の美しい黒髪を後に軍神と謳われる者に相応しい覇気で揺らしながら、言葉を続ける。

 

「街を! 民衆を護る立場にありながら、我先に逃げるだけでは飽き足らず、食料を持って行くなど、賊のする事と同じではないか!!!」

 

  この街に住んでいる人々以上に怒りの感情を露にする愛紗に人々は彼女以上に怒りを表現できる自信がないのか、人々は押し黙る。

 

  そうして、皆一様に愛紗にも一刀とはまた違った敬服の念を抱く。

 

「まあ、落ち着け、愛紗…」

 

  人々が押し黙る程の覇気を放つ愛紗に全く気圧された風もなく趙雲こと星は肩に手を置き宥める。

 

「落ち着いてなんていられないのだ!!」

 

「そうよ!」

 

「ボクも同じ気持ちです、愛紗様!」

 

  しかし、怒りを露にしているのは愛紗だけではなかった。

 

  幼いながらも独自の正義感を持つ張飛こと鈴々。

 

  泰平の世、弱者に優しい世を目標にしてきた劉備こと桃瑚。

 

  正義感云々より自分の考えが愛紗と同じだったことにはしゃぐ様な形で同意する周倉。

 

  周倉はなんか違う気がするが、鈴々と桃瑚は純粋に抑えることのできない怒りを露にする。

 

「確かに、酒の不味くなる話題だな…」

 

「確かに――――ん?」

 

  星は一度頷いたが、最も同意できる――それが酒なのは些か問題ではないかと思えなくもないが――感想は星は元より、皆が聞いたことのない人物の声であったために、星の武人として並外れた性能を発揮しながら振り向く。

 

「ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ………プハッ!」

 

  いつの間にそこに居たのだろうか。

 

  そこには銀髪を簪(かんざし)で纏めている女性が馬上で酒を煽っていた。

 

「だ、誰だ、貴様!?」

 

  その女性を確認すると、星は直ぐ様一刀の傍に行き、護る様に華美な二股槍を構え、愛紗も遅れて青龍堰月刀を構えながら質問というより脅しといった声色で訊ねる。

 

  しかし、馬上の女性はその愛紗からの覇気に怯んだ様子もなく、酒瓶を逆さまにして中身が無いかどうかを確認し、中身がないと解るとつまらなそうな表情を浮かべる。

 

「おい! 質問に答えろ! 貴様は一体何者だ!!」

 

  彼女たちの警戒は端から見れば異常に思えるかもしれない。しかし、一刀たちからしてみれば彼女たちの反応は当然の様に思われた。

 

  戦闘モードではなくなり、多少感覚を鈍らせてはいたが、彼女たち程の武人がここまで至近距離に近付いてきていても、話し掛けられるまでその気配に気付かなかった。

 

  それは異常と判断するに充分足り得た。

 

「ん? 私?」

 

  ここで漸く馬上の女性は愛紗の声に反応する。

 

「私は、巴郡に現れた賊の討伐の任を受けた厳顔(げんがん)という者よ。よろしくねぇ」

 

  愉快愉快といった表情を浮かべながら女性はそう名乗った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二十六話:益州州牧

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「討伐?」

 

「そ。討伐」

 

  厳願と名乗った女性は桃瑚の言葉に素直に頷く。

 

「討伐にも拘らず、お主だけというのは、おかしいのではないか?」

 

  桃瑚や鈴々はともかく、星や愛紗といった者たちは厳願の言葉が信じられないのか、疑問を投げ掛ける。

 

  その疑問は一刀も感じていた事であった。

 

  厳願は名乗ったにも拘らず、未だに信を置いて貰えていないという事を感じたのか、やれやれといった空気を漂わせる溜め息を一回吐くと星の質問に答える。

 

「討伐に先立って、襲撃にあったという街を見に一人で先行してきたのよ…」

 

  成る程。

 

 この人、好い人かも。

 

  厳願の話云々以前に桃瑚は直感的にそう感じた。

 

  そう感じつつ、桃瑚は賊の規模が規模なだけに、派遣された者はそれなりの立場にある者だろうと感じ、目上の者に対する礼を取りながら厳願に話しかける。

 

「それはご苦労様です。ですが、御覧の通り、賊は我々が討伐致しましたので、貴女方の手を煩わす様なことはありません」

 

 だから、さっさと出て行け。

 

 桃瑚の言葉は婉曲的ではあったがつまりはそういうことだ。

 

 確かに、この人を好い人とは判断した。しかし、だからといって折角手にした主の太守としての足掛かりを失うわけにはいかない。

 

 そう思い、桃瑚にしては珍しく刺々しい空気を纏いながら厳願に言う。

 

「う〜ん…。そうもいかないンだなぁ、コレが」

 

  桃瑚程度の武人の覇気ではびくともしない厳願は、気にした風もなく桃瑚にそう返す。

 

「と、言いますと?」

 

  今まで発言を控えていた一刀だが、あまりに刺々しい仲間を目の当たりにして、流石にヤバいと感じたらしく、彼女らの間に割って入る。

 

  厳願は他の者とは違い、凡庸そうな一刀に逆に興味を持ったのか一刀を値踏みする様に一瞥してから質問に答える。

 

「私が、この巴郡の新しい太守に任命されたからよ」

 

「あ、そうなんですか…」

 

  一刀は納得したといった表情で、納得したといった感じに頷く。

 

  そんな一刀に厳願は肩透かしを食らったらしく、「あれ?」といった表情を浮かべる。

 

  厳願は先程までの話をほとんど聞いていた。ために、一刀が太守にと推挙されていたのを知っている。

 

  太守といえば、相当の地位である。

 

  州を今の日本で言うなら県。そして、その州の最高権力者たる州牧は今の日本で言うなら県知事。

 

  郡とは、今の日本で言うなら市。太守とはその郡を治める者――――つまり、市長に値する。

 

  しかし、実際のところ、州牧という地位は最早、規模や実権といい一国の王に等しかった。

 

  そして、州牧と同じ様に太守も地位が事実上繰り上がり、今の日本で言うなら県知事に値した。

 

  それ程の地位を、今回の賊の討伐に際して、何の功績もない者がいきなり横から霞め盗ろうというのだから普通は――――

 

「ふざけるな!!!」

 

 ――――この様に怒声を張り上げるのが当然だ。

 

  愛紗がその一言だけで収まるはずもなく、尚も怒りを厳願にぶつける。

 

「自分たちは何もせず――――いや、逃げ出したくせに、人の手柄を横取りするつもりか!!!」

 

「あ、愛紗!!」

 

  一刀が慌てた様子で愛紗を黙らせようとするが、愛紗は止まらない。

 

「だいたい、討伐部隊を率いる者が酒を飲みながら、民の痛みを理解せず、愉快といった表情を浮かべる。それら全てがこの国の民をバカにしているとしか思えぬ行動だ!」

 

  愛紗が言い終えると桃瑚、鈴々、周倉といった面々は「そうだ、そうだー」と声を上げながら同意を示す。星も口にはしないが、気持ちは同じといった表情で厳願を睨む。

 

  一刀はここまで言ってしまってはどうしようもない。

 

  そう感じながら厳願をチラッと見る。

 

  しかし、当の厳願はというと、不快といった感情を表すどころか、寧ろ最初に名乗った時に見せた、愉快愉快といった表情を浮かべる。

 

「何がおかしい!!!」

 

「あ、愛紗! もう止めろ!」

 

  その厳願の表情が自分たちをバカにしていると感じ、気に入らなかった愛紗は更に厳願に食って掛かる。

 

  そんな愛紗を再び止めようと一刀は声を荒げる。

 

「しかし、ご主人様! こやつは――――」

 

「止めろと言っている」

 

「――――」

 

  一刀が意識的に発する殺気にも似た気に、愛紗は言葉を飲む。

 

  そんな先程までとは打って変わった一刀の気配に厳願は目を細め、感心した様に「ほおう」と洩らす。

 

「私の家臣が、とんだ御無礼を…。御容赦の程を…」

 

  一刀は厳願に向き直ると、その気を消し去り、最初に厳願と顔を合わせた時に見せた凡庸を絵に描いた様な態度で平服し、許しを請う。

 

  厳願も別にさほど気にしていた様子もなく、一刀に「気にするな」と声をかけようとしたその時だった。

 

「天の御遣い様が、頭下げる必要はねぇですよ!」

 

「そうだ! 悪いのはぜーんぶ役人たちなんだ!」

 

  声を上げたのは愛紗や桃瑚といった家臣たちではなく、この街の民草だった。

 

  本来ならば、嬉しいはずの言葉。

 

  しかし、今の状況では余計なことであると感じずにはいられない。

 

  一刀が見るに、この厳願という女性は悪い人ではない。

 

  話も解るし、恐らくは自分たちをからかっているだけだと思われた。

 

  だが、民草が口走った言葉は折角収まりつつあった現状を更にややこしくしかねない。

 

「天の…御遣い…?」

 

(ああ〜あ、やっぱりそこ聞こえちゃったかぁ…)

 

  一刀は厄介だ、と頭を抱える。

 

  厳願は愉快愉快といった表情をキョトンといった擬音が似合う表情に変え、一刀にその顔を向ける。

 

「貴方、“天の御遣い”…なの?」

 

「…………ああ」

 

  頷くしかなかった。

 

  周りには自分のことを未だに“天の御遣い”と信じている民草が大勢いる。今、ここで違いますとはとてもじゃないが言える状況ではなかった。

 

「“天の御遣い”……」

 

  厳願はポツリと呟く。そして――――

 

「ぷっ……プハハハハー!!!!!」

 

  ――――今まで、愉快愉快といった表情を浮かべつつも、決して見せなかった大爆笑をかましてくれた。

 

  一刀はその厳願の反応を正しい、と感じつつ、今まで名乗っていて初めて恥を感じて頬を僅かに赤くした。

 

  “天の御遣い”だなんて言葉、鵜呑みにする方がどうかしている。

 

「き、貴様!! 何がおかしい!!」

 

  言うまでもない。

 

  一刀はそう思ったが、やはり言えない。

 

「そうなのだ! お兄ちゃんをバカにする奴は鈴々が許さないのだ!!」

 

  普通ならありがたいと感じる鈴々の言動。

 

  だが、今は恥の上塗りだ。

 

「プハッハハハ!! だ、だって、“天の御遣い”って…。プハハハハー!!」

 

  関張――蜀の二大武将――の放つ殺気は厳願に向けられる。

 

 しかし、それすらも消し飛ばすかの様な豪快な笑いをし続ける厳願。

 

 

  その笑いに、一刀は更に己の肩書きの恥ずかしさを深く感じる。

 

「貴様〜〜……!!」

 

  そんな厳願の反応に、遂に愛紗は青龍堰月刀を本格的に殺気を籠めて向ける。

 

「ハハハ…! いや、悪い悪い。確かに、こっちが色々悪かった…」

 

  笑いを噛み殺しながらそう言うと、厳願は漸く馬から降りる。

 

「この街を、ひいては巴郡――――いえ、益州を守護した勇士に、改めて礼を…」

 

  そうして、初めて厳願は頭を下げる。

 

  そのいきなりの厳願の変わり様に一刀以外の全員が驚きといった表情を浮かべる。

 

「いえ…私は自分にできる事をやっただけです…」

 

  皆が唖然としている中、一刀だけはまるで動じた様子もなく、礼を尽くす厳願に一刀も礼を以て応える。

 

  厳願はそんな一刀にまたも愉快愉快といった表情を浮かべる。

 

「その勇と功に、報いねばなりますまい…」

 

「あ、いえ…お気になさらず…」

 

  突如態度を改めた厳願の言葉に一刀は流石に心の奥底から遠慮の言葉を口にする。

 

  そんな一刀に今までの愉快愉快といった表情とはまた違った意味で柔らかいモノへと厳願は表情を変える。

 

「そうもいきませぬな。功を上げた者に、なんの恩賞も無しでは我々の世間体が悪くなります…」

 

「ぐっ…」

 

  確かにその通りだ。

 

  普通なら、その功を揉み消すことも可能だろう。

 

 だが、ここまで民衆が一刀を知り、受け入れ、渇望しているのだ。それを揉み消すのは――できなくはないが――面倒事である。

 

  そして、何よりそれをしてしまったのは自分自身だ。

 

  それが解っているだけに、責任感の強い一刀には断ることができなかった。

 

  謀らずも、厳願は一刀の短所とも、長所とも言える部分を突いていた。

 

「それに――――」

 

「それに…?」

 

  一拍間をおき、厳願は言った。

 

「そちらの方が面白そうだ…」

 

  ニッと浮かべる笑みに、一刀はそちらが本心であると容易に解った。

 

 

 

 

 

 

 

 

  厳願は一刀の功に報いる、と言ったがそこそこの地位にある厳願ではあるが、流石に厳願の一存で勝手に役職を決める事はできない。

 

  故に、厳願は一刀を推挙すべく益州州牧である劉璋のいる成都へと戻った。

 

  その厳願とともに張本人である一刀と星も成都に向かった。

 

  しかし、一刀に付き従っているのは星だけだ。

 

  桃瑚たちは荊州に身を寄せていた時に出会った仲間が来るというので、巴郡に止まった。

 

  一刀も――可能性は低いが――先の黄巾党の残党が襲ってくるかもしれないという理由からそれを了承した。

 

  その時の、桃瑚の申し訳なさそうな表情が浮かぶ。

 

  お気楽そうに見えて、実は生真面目な性格であると見受けられた。

 

「今日のところは、こちらの部屋でお休み下さい」

 

  二日もかけて成都に着き、城に入り暫く歩くと、厳願は右手で扉を示すとそう言った。

 

「え? このまま州牧さんに会うンじゃないの?」

 

「主、相手はこの益州の州牧なのですぞ。そんな突然には無理に決まっているではありませんか…」

 

  言われた一刀は「う…」と唸る。

 

  言われてみれば、今日現れたばかりの自称“天の御遣い”などという輩――厳願の推挙とはいえ――にほいそれと会ってくれるとは思えなかった。

 

「それもあるが…今日はもう夜も遅い。それに、長旅でお疲れでしょう?」

 

「ん…。まあ、疲れてないと言えば……嘘になる…」

 

  とは言うものの、ここに着いてからというものの、この聖フランチェスカ学園の制服が目立つのか、人の横を通りすがる度に奇異の視線を浴びせられる。

 

 それはやはり精神衛生上あまりよろしくない。

 

  あまり目立つことを好まない一刀は、できればすぐに巴郡へと帰りたい――最早、あそこは一刀にとってホームという認識になっている――と思っていた。

 

  しかし、急いだところでどうにかなる訳でもなく、仕方ないと一刀は厳願に示された部屋へと入る。

 

「何で…お前まで部屋に入ってくるンだ、星…?」

 

「む? 何か問題でも?」

 

  一刀の部屋に入ろうとする星。

 

  そんな行動を極自然にしようとする星を見咎め、一刀は注意する。

 

  が、星は全く意に介した様子もなく、寧ろそんな事を言う一刀に問題があるかの様に振る舞う。

 

「いや! 色々あるだろう、問題!」

 

  何とも曖昧だが、何故か解り易い言葉で星に応える。

 

「私は主の護衛なのですぞ…。その私が主と離れては意味がないではありませんか…」

 

「いや、そりゃそうだが…。そうじゃなくてだな…」

 

  しかし、星は悪びれた様子もなく、一刀以上に解り易い理由を述べる。

 

  一刀も星の言い分はもっともだと思う。

 

  だが、やはり若い男女が同じ部屋で一晩共にするのは、流石の朴念人――――一刀と言えどもマズイのではないか、と思われた。

 

「………」

 

  そこでどうするべきかと悩み、目線を星から反らせば部屋の外で事の成り行きを実に愉快といった表情で見る厳願が目に入った。

 

  そこで、漸くいつも通りの冷静さを取り戻した一刀は星の表情を改めて伺う。

 

  そこで、漸く気付く。

 

「星…お前、解ってて言ってるだろ…」

 

  星の表情も、厳願と同じく実に愉快といったモノだった。

 

「さて、何のことやら…」

 

  言葉は惚けていたが、表情はその通りだと答えていた。

 

「終わりですかな? では、趙雲殿の部屋は隣ですので」

 

  ここで、今までそのやり取りをおもしろそうに傍観していた厳願が二人に割って入る。

 

  あるなら早く言ってくれ。

 

  一刀はそう思いながらも口に出したところで無駄だと解っていたために、その言葉を呑み込む。

 

  厳願はそれだけ伝えると踵を返した。

 

「主…」

 

「ん? 何だ?」

 

  今日は色々あり、疲れた。

 

  故に、一刀はすぐに寝ようと思い部屋の奥へと入っていこうとした時、星が話しかける。

 

「御用の際は、何の遠慮もいりません。いつでも我が部屋へおこし下さい…」

 

  顎に手を当てながら、実に妖艶な笑みを浮かべながら星はそう言った。

 

  その妖艶な様子のせいで、一刀の頭では『御用』という言葉に『男女としての』という言葉が付け加えられた。

 

「星……そんなに俺をからかうのは、楽しいか?」

 

  今度は騙されないぞ。

 

  一刀はそういった表情を浮かべながら毅然とした態度で答える。

 

「む…?」

 

  そんな一刀の態度に、表情を歪める星。

 

「じゃ、おやすみ…」

 

  しかし、そんな星の様子に気付かなかったらしく、一刀はそう言い引き戸を閉めた。

 

「まったく…」

 

  廊下で星は一人そう愚痴る。

 

  今度は本気だった。

 

  いつも飄々としている星にしては珍しく、頬を僅かに朱色に染めていたのが何よりの証拠だった。

 

  自業自得のような気もするが、一刀の男としてどーよ、と言いたくなるくらいの甲斐性の無さが原因の一端であることは疑う余地はなく、故に星はそんな一刀に不満といった表情を浮かべつつも、自分の部屋へと踵を返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「北郷殿…」

 

  夜も更け、一刀が床に着いて二、三時間といったところだろうか。

 

  一刀の眠る部屋の前から、一刀を呼ぶ声がした。

 

「北郷殿…」

 

  一度で起きない一刀をもう一度呼び掛ける。

 

「ん……ん…」

 

  そこで漸く一刀は目を覚ます。

 

  しかし、未だ意識ははっきりせず、上半身をゆっくりと起こすことだけで精一杯だった。

 

「北郷殿…」

 

  三度、一刀を呼ぶ。

 

  その三回とも、まるで機械の様に全く同じ抑揚で発せられていた。

 

  その三回目の呼び掛けで漸く一刀は虚(うつろ)な目を引き戸の方へと向ける。

 

「星…?」

 

  しかし、先程から一刀を呼ぶ声は星にしては――――いや、女性にしてはあまりに低すぎるモノだ。

 

  その事実に漸く気付いた一刀は一気に眠気が引いていく。

 

「誰だ…?」

 

  そうして、いつも通りの状態に戻った一刀は、引き戸の向こうの――恐らく――男性に話し掛ける。

 

  それと同時に、天狼を右手に握る。

 

「某(それがし)、益州州牧劉璋様の麾下にある将――――張任(ちょうじん)と申します…」

 

「張任…?」

 

  聞いたことない。

 

  三國志をそこそこ知っている一刀だが、自分の三國志に関する知識を検索しても判らなかった。

 

「扉を、開けて頂けますか…?」

 

  張任は続けて言う。

 

  どんな役職にあるかは知らないが、確かに、扉越しで挨拶とは失礼である。

 

  一刀は返事を口にはせず、警戒を解くことなく引き戸を開ける。

 

「北郷、殿ですな…?」

 

  確認を取る者はやはり男性だった。

 

  ほとんどの髪が白髪に変わっているのを見るに、年齢は初老に差し掛かろうかという程であろう。

 

  しかし、その年齢を感じさせない威風が、彼を歴戦の勇者だと感じさせた。

 

  そして、その威厳に相応しい髭を顎と鼻の下に生やしており、また顔にある無数の古傷もこの初老の男性――――張任に相応しかった。

 

  だが、一刀がそれ等より早く気付いた見た目の特徴は、張任の右腕だった。

 

  張任の右腕は二の腕辺りからなくなっていた。

 

「はい…」

 

  張任の放つ――直接向けられてはいないが――威風に負けまいと、一刀は力強く張任の言葉に首を縦に振る。

 

「夜分遅くに無礼を承知で、お願いしたき義がございます…」

 

「何ですか…?」

 

  張任と会話をしているが、意識は会話には向かっていなかった。

 

  張任の放つ威風。

 

  恐らく、ここに来るまで気配と共に意識的に消していたのだろう。

 

 でなければ、これ程の威風を纏う者だ。一刀と言えど部屋の前に立つだけで、嫌でも目が覚める。

 

  ともかく、一刀が目を覚まさなかった理由は説明がつく。

 

  しかし、隣の部屋で休んでいる星はどうか。

 

  気配を消したとはいえ、一刀とは段違いの力を持つ星が――――しかも、今回は一刀の護衛として少なからず神経を尖らせている星が、張任の存在に全く気付いていない。星が部屋から出てこないのが何よりの証拠だ。

 

 そして、それらの事実が、この張任という男がとてつもなく強いという事実を表していた。

 

「我が主、劉璋様が貴殿に御会いしたいとのことです」

 

「なに…?」

 

  目の前の男――――張任の力量について考察していた一刀だが、張任の言葉にその考察を一端中止する。

 

  劉璋が――――益州州牧が会いたい? “天の御遣い”だなんて自称するこの俺に? しかも、こんな深夜に?

 

  明晰な頭脳をフル回転させ、漸くその事実を認識させる一刀。

 

  しかし、それができたところで、新たな疑問が湧き起こる。

 

「何故ですか?」

 

  だが、その疑問は一刀が幾ら考えたところで解消されるはずもなく、結局張任に訊ねてみるしかなかった。

 

「劉璋様は、“天の御遣い”と自らを称される貴殿に興味があると申されておりました。それ以上の理由は、某には判りませぬ故、御容赦を…」

 

  重低音の声で、業務的に、ただ淡々と事実を口にする。

 

  一刀にはそう見えた。

 

  故に一刀は、一応は納得する。しかし、まだ警戒は解けない。

 

「して、来て頂けますかな?」

 

  張任は当初の目的を果たそうと、話を元に戻す。

 

  一刀は一瞬考える素振りを見せるがすぐに答える。

 

「わかりました…。案内して下さい」

 

  そう言うと、一刀は部屋を出る。

 

「失礼ですが、その右手にある剣は置いて行って頂けませぬか?」

 

「………」

 

  これには流石に考え込む一刀。

 

  今の状況は、どう考えても怪しいのだ。

 

  張任は一見真実を述べている様に見えるが、初対面の相手をいきなり信用する程一刀もバカではない。

 

「判りました…」

 

  考えた挙げ句、張任の要求に応じる一刀。

 

  拒否すれば話は進展しない。

 

  そう判断したのだ。

 

  それに、自らの護衛――――星は張任の気配には気付かずとも、一刀の気配には気付くはず。

 

  そう信じて、一刀は先導する張任の後を言葉を発することなく、付き従う。

 

 

 

 

 

 

 

 

  城を出て、幾分か歩いた。

 

  すると、周りを木々に囲まれ、狭いが細かく手入れされている道に入る。

 

  その道を二人の男性――――一刀と張任は一切の会話を交わさず歩き続けた。

 

「こちらで少々お待ちを…」

 

  その狭い道から拓けた所が垣間見える辺りまで差し掛かると、張任が一刀にそう言う。

 

  一刀が頷くと、張任は恭しく頭を下げて拓けた所へと一人で行ってしまう。

 

  待っている間、一刀はずっと周りの木々や茂みにいる虫たちの歌声に耳を傾ける。

 

  その音色は人間が楽器を使い行う下手な演奏などより、実に心地良く、時間が時間なだけに少し眠気すら覚えてしまう程である。

 

「お待たせ致しました…」

 

  目を閉じて、虫たちの歌声に耳を傾けていた一刀だが、重低音な張任の声にすぐに目を開き、意識を覚醒させる。

 

「では、そちらへどうぞ…」

 

  張任は目で行き先を伝える。

 

  一刀も大人しくそれに従い、目で示された先へと向かう。

 

 

 

 

 

 

 

 

  そこには、月の光を反射する綺麗な泉があった。

 

  そして、その月の光は、その姿を神秘的に見せる。

 

「うぬが、“天の御遣い”か…?」

 

  鈴の鳴る様な声とはこれを言うのだろう。

 

  月の光によりライトアップされた長い金色の髪が、風によってさらさらと流れる。

 

  まるで、聖女の様なその姿。

 

  しかし、聖女というには些か幼すぎる。

 

「そう、です…」

 

  州牧という高い地位にある者が、こんなにも幼いとは思っていなかったのか、一刀の返す言葉が僅かに淀む。

 

  少女――――劉璋はその返答に表情を僅かにムッとしたモノにする。

 

  しかし、本当に僅かなため、一刀は気付かない。

 

「何故敬語を使う?」

 

「え?」

 

「うぬは、“天の御遣い”なのであろう…? ならば、余に対して、何ゆえ敬語で話すのだ?」

 

  確かに、一刀は“天の御遣い”と騙っている。“天の御遣い”ならば、一州牧などより遥かに上位にあるはずだ。

 

  もっとも、それが本当なら、の話だが…。

 

「確かにそうですけど…“天の御遣い”はあくまでも天界――一々説明が面倒だからそう言うことにした――での地位です。この世界では、州牧の方が上の地位にあります」

 

  これから自分に役職を与える地位にある人物であるが故に、一刀は軟らかい――――いや、ゴマをする様な物腰で劉璋を持ち上げる。

 

 心の底ではそんな自分に拒否反応を起こしていた。

 

「地位……」

 

  ボソリと劉璋は呟く。

 

  それと同時に、劉璋の表情に暗い影が見受けられた。

 

  今回の表情は、あまりにもはっきりとしていたために、流石の一刀もその表情の変化に気付く。

 

「うぬも、人を“地位”で判断するのか…」

 

  影の理由を口にする。

 

  その理由を――――本心を聞いて、一刀は自分を恥じた。

 

  劉璋は――――少女は、ただ自分に会いたいだけだった。州牧としてではなく、『ただの劉璋』としてだ。

 

 自分を値踏みするだけならば、協議の場ですればいい。

 

  だというのに、州牧という地位にある公の場ではなく、この様な場所に、しかも深夜遅くに会いたがっていた理由は、張任の説明した通り『自分に興味がある』。その一点なのだ。

 

  なのに、俺は…。

 

  一刀は、そう自分の行いを恥じる。

 

「いや……」

 

  劉璋の言葉を否定する。

 

  そうだ。俺は、俺の言葉で話すことが今は正しいンだ。

 

  そう思いながら、一刀は言葉を続ける。

 

「確かに、地位はあるならあるでいいと思うけど、そんなモノ、所詮は付属品。その人の本質とは全く別のモノだ」

 

  いきなりの一刀の変化に、劉璋は目を通常より速い速度で閉じたり開いたりを繰り返す。

 

  僅かな間に見せたその表情が、劉璋が驚いているということを示していた。

 

「そうか……」

 

  呟きながら速い瞬きを、通常の速度に戻す。

 

  そして、劉璋は「うむ…」と一回頷き、一刀に向き直る。

 

 一刀に向けたその表情は、喜色に満ちていた。

 

「ならばうぬは……余を天栄(てんえい)と呼べ」

 

  何が『ならば』なのか。

 

  一刀は心の中でそう思いながらも、真名をあくまでも尊大な態度を崩さず教える劉璋――――天栄を驚いたといった表情で見る。

 

  確かに、地位は問題じゃないと言った。言ったが、いきなり真名を教えるのは些か軽率ではないか。

 

  そう思わずにはいられなかった。

 

「うぬの真名は何と言うのだ?」

 

  人にモノを訊ねる時には、もう少し頭を――精神的な意味で――低くしようとはしないのか。

 

  劉璋――――天栄の尊大さは一刀にそう思わせる程、ぶっちゃけ、偉そうだった。

 

  まあ、実際に偉いわけだが、それにしても他人にモノを訊ねる時は反射的にもう少し物腰が低くなるものだ。

 

  だが、劉璋――――天栄は低くなるどころか、寧ろより態度がでかくなった様にさえ感じる。

 

「天界では、真名っていう風習がないンだ…」

 

「む…。ならば、余はうぬへの信頼をどの様に表せば良いのだ?」

 

  正直な話、こんなに簡単に誰かを信頼するのは軽挙だと思わざるを得ない。

 

  しかし、それを注意する気にはなれなかった。

 

  別に信頼を失うのを恐れてではない。

 

  ただ、その真剣に悩む表情が微笑ましかったからだ。

 

「別にそんなモノはなくても、信頼は表せるよ」

 

「本当か!?」

 

  笑顔で言う一刀に、天栄は悩みが解決できると、表情を緩めながら一刀に向き直る。

 

「ああ…」

 

「それは何だ!? 余にも教えよ!!」

 

  頷く一刀に、天栄は相変わらずな尊大な態度で教えを請う。

 

「それは、今こうしている様に、自分たちの本音を、自分たちの言葉で話し合うことさ」

 

「…………そんな、ことでか? そんな簡単なことで、本当に信頼を表せるのか?」

 

「ああ…」

 

  もっとも、簡単ではないンだがな…。

 

  一刀は頷きつつも、内心呟く。

 

  一刀は知っている。

 

  本音を、本心をそのまま相手にぶつける難しさを。

 

  相手にぶつけられた時に、全てを正確に受け止め、そして受け入れる難しさを。

 

  そう。一刀の言ったことは、実はとても難しいことなのだ。

 

「ふむ…。そんな簡単な方法があるとは……」

 

  感心した様にふむふむと何度も頷く天栄。

 

  そんな天栄に、月にライトアップされ、見た目は幾分か大人びていても、やはりこういうところは年相応なんだと感じずにはいられない一刀。

 

「では、一刀――――」

 

  いきなり呼び捨て!?

 

  流石の一刀と言えど、やはりこの少女――――天栄の育ち故の傍若無人っぷりにはそう簡単には順応できなかった。

 

  しかし、それ以上に一刀には順応できないことを天栄はのたまった。

 

「余に本音を話せ!」

 

「………はい?」

 

  天栄さん……それは、ムチャブリってヤツですよ…。

 

  世間知らずの金色のお姫様。

 

  そんな天栄に、これからも振り回される予感を感じつつも、時間が深夜であるということも忘れるぐらい楽しい会話を続けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「いつまで、姿を隠す気ですかな…?」

 

  自らの主――――天栄と一刀が時間を忘れて話し込んでいる最中も、当然臣下である張任は待機をし続けていた。

 

  しかし、それは張任だけではなかった。

 

「ほおう…流石ですな……」

 

  その重低音な声に応える女性の声。

 

  言わずもがな、一刀の護衛として今回付き従った星である。

 

  星は完璧に気配を消していたにも拘らず、自分の存在にいとも容易く気付いた張任に賞賛の念を抱く。

 

「いつから気付いておられましたか?」

 

「そなたが部屋を出られた時からだ」

 

  つまりは最初から。

 

  その解答に、星は綺麗に整った柳眉を歪める。

 

  この男――――張任の力量は疑う余地もなかった。しかし、一つの疑問が星には浮かんだからだ。

 

「何ゆえ、今まで無視してきたのだ?」

 

  自分の存在に気付きつつ、全くそれを気にした素振りを張任は見せなかったのだ。

 

  自分の主である劉璋――――天栄が居る場所へと連れて行くにも拘らず、だ。

 

「臣下が主を心配するのは当然のことであろう…」

 

  それだけ語ると張任は再び無言になる。

 

  それは確かにそうだ。

 

  ならば、何ゆえ張任は自らの主が見えないこの位置で待機するのか。

 

  何ゆえ氏素性の知れない一刀と自らの主を二人っきりにするのか。

 

  星は様々な疑問が思い浮かぶが、それを口にすることは叶わなかった。

 

「そろそろ、約束の御時間ですな…」

 

  張任はそう言いながら、自らの主がいる泉のほとりへと向かったからだ。

 

  予め時間が決まっていたのは判ったが、そんな事は星の知りたい事ではなかった。

 

  しかし、今更問いかけることはできず、取り敢えず星は、自らの主――――一刀を今度は姿を現して迎えに行くことにした。

 

  今はこの場にいない愛紗に変わって、小言の一つや二つくらい浴びせてやろう。

 

  星は密かにそう思った。

 

  先ず、第一の小言は――――

 

「夜這いですかな、主…?」

 

  ――――であった。

 

  一刀は慌てふためきながら星のそれを否定した。

 

  ちなみに、近くでそれを聞いていた世間知らずのお姫様、劉璋――――天栄は夜這いの意味を知らないようで、一刀に「夜這いとは何だ?」と質問をして、一刀は勿論、臣下である張任も困らせていた。

 

 

 

 


あとがき

 

ほのぼの分多目です。

 

ども、冬木の猫好きです。

 

今回は――前半は微妙ですが――自然とほのぼの系になりました。

 

原作では県令という役職に就いた一刀ですが、本作品ではワンランク上の役職――――太守に推薦されます。

 

私は三國志の時代の役職には詳しくないので、話中での州牧と太守の説明が正確にあっているかどうかはちょっと微妙なので悪しからず。

 

本当は今回、もう少し進めたかったのですが、ちょっと思ったより長くなったので、止めときました。

 

それでは、今回はこの辺で。また次回更新の時にお会いしましょう。




天栄という新たなキャラも登場したけれど。
美姫 「うーん、彼女はこれからどうするつもりなのかしらね」
だよな。あぁ、これからどんな展開をしていくんだろう。
美姫 「次のお話も楽しみね」
うんうん。次回も待っています。
美姫 「待ってますね〜」



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