鍛錬も終り誰もが寝静まった夜が更けた時間。鳥は寝静まり、猫の鳴き声さえも聞こえない。

 虫の命の息吹を示す音さえも聞こえはしない夜更け。

 

 街にいる大半の者が寝静まっている、そんな夜に恭也は眠れずにいた。

 

 鍛錬を終えていつもなら布団に入っている時間。だが、今日ばかりは眠気が中々に訪れない。

 

 

 理由は恭也も理解している。

 本日の昼過ぎより休暇を貰った美沙斗が高町家に来ている…………それだけ。

 

 初恋の女性。そして現存する唯一の完成した御神の剣士。その二つの要因が恭也の心をかき乱す。士郎が死んでしまったが為に、己が足が壊れてしまってその場所に至れないが為に、さらに『完成した御神の剣士』というモノに恭也は懸想してしまう。

 

 否、それだけではない。きっと――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恭也にとって眠れぬ時間が続く。体感時間では随分と時間が経過した気がするのに長針が示している場所は二十分とそれほど経っていない。

 夜がこんなにも長く感じるのは随分と久しぶりだと――恭也は心の中で苦笑した。

 

 

 

 眠れない時間が続く。心の中で何処か熱いモノがある為に眠気が訪れない。

 それは憧れている美沙斗がいるという事だけでは無い事に、恭也も薄々ながら気付いている。

 

 憧れだけではここまで胸が熱くならない……と。

 

 鈍感、朴念仁、枯れている。男として致命的な暴言をたびたび受けているが、この胸の中にある思いの指向性が何処にあるのかぐらいは理解できた。

 

 

 

 

 

 胸の熱さを冷ますために台所に足を向けようとしたその時、縁側に何か気配を恭也は感じた。

 揺らめくような小さな、空気自体に溶け込むような薄い気配。

 

 それほどの陰行を恭也は一人しか知らない。この家にいる中で一人しか思い当たらない。

 

 

 

 

 

 

 溶け込むほどの小さな気配に誘われるように恭也は台所に足を向けるのを止め、縁側に向かった。

 

 

 

 

 

 障子を開けるとそこには満点の星空の下、一人佇む女神がいた。

 

 

 地上に届く僅かな星明かりによって緩やかに煌く烏羽色の髪。優しく、たおやかに煌く髪。下ろされた髪の一房一房が少しずつ異なるように煌く。

 月明かり無き朔夜だからこそ見える静かな髪。そして、月明かりがないからこそできる曖昧な陰影。

 星明かりの一つ一つが美沙斗を優しく包みこんでいた。

 

 光が少ない世界の中でこそはっきりと美沙斗は輝いている。太陽の光では美沙斗を映し出すには明るすぎる。月の光では美沙斗の影を優しく包みこめない。

 だが、闇の中では美沙斗は苦しんでしまう。故にこその月無き夜、朔夜こそが相応しい。

 

 

 満点の星空の下、美沙斗は誰よりも輝く。それはあたかも太陽の光を反射して輝く月のよう。星明かりによって輝くたおやかな月。

 

 

 

 

――月の女神――――か」

 

 星明かりの下で佇む美沙斗を恭也はそう認識できた。星明かりで輝く美沙斗は月。

 そしてそれは美沙斗の在り方ともとても合致していた。家の中心となり皆を引っ張る桃子は太陽。美沙斗は皆を静かに見守り続ける月。

 

――月の女神という言葉が出てくるわけだ。

 

 今改めて美沙斗が己にとっての立ち位置を把握した。簡単な事だというのに今になってやっと把握したことに対して心の中で自嘲する。己の心の中すら理解できていなかったのだから。

 

 

 

「恭也、どうしたんだい?」

 

 美沙斗が振り返った時に揺らめく髪。静止していて変化する事の無かった烏羽色の髪が舞う。

 極端な変化はない、しかしその髪は舞う事によって違う光を灯していた。

 

 そんななんでもない姿に恭也は見惚れていた。朔夜の中の月に、

 

「少し風に当ろうと、そういう美沙斗さんは?」

「星が綺麗だったからね。星見酒を……」

 

 答えを示すように美沙斗の傍らに置かれていた酒瓶を手に取り、優しく微笑みながら、ちゃぽんと揺らした。

 

――星明かりよりずっと…………美沙斗さんの方が綺麗です。

 

 言葉に出なかったのが不思議なぐらいに、ふとその言葉が浮かんでいた。今まで見たどんな風景よりも、どんな光景よりも今の美沙斗の方が綺麗だと、恭也は思った。

 

 言葉は浮かんでいたが口には出さなかった。出した事で美沙斗がどんな表情を、どんな言葉で返してくれるのかとても気になったが、そういう気障な台詞を己が口に出すようなキャラクターではないと理解している。何よりもそういう台詞を臆面もなく出せるような性格ではない。

 

「恭也も一緒にどうだい?」

 

 揺らされて鈍く輝く酒瓶。普段は進んで飲む様な代物ではない。寧ろ、さざなみで強引に飲まされるような代物。

 だが、今日ばかりは進んで飲んでみようと思った。星明かりと朔夜の月の女神という肴があるこの場で飲まない方が失礼だと、きっと父なら言うだろうと何所かで己の心を誤魔化しながら美沙斗の隣に座った。

 

 

 隣に座った事で陰影が薄くなり星明かりに照らされる美沙斗の顔がくっきりと見えた。

 星明かりで輝いていたのは美沙斗の髪がぬれていたからだと今更ながらに気付いた。風呂からあがってそう時間がたっていないと考えると胸が高鳴った。

 シャンプーの香りが鼻に届く。頭の中でこの香りは美由希のシャンプーだったなと思い出した。同時に、香る相手が違うだけでこんなにも魅力的になるのかとも。

 

 

 

トクトクトクと、音が少ない世界で猪口に注がれる酒の音が紡がれる。

 濁りが一切ない透明な色。注がれる時にわずかに香るアルコールと美味い日本酒独特の甘い香り。

 

 

 酒を一口含む。含んだとたんに広がる酒の甘さ、飲んでみると鼻の奥から香る豊潤な米の香り。今まで一番の味だった。

 

――きっと美沙斗さんと一緒に飲むからだろうな。

 

 恭也は心の底からそう、思えた。

 

 

 

 

 

 酒を静かに横にいる月の女神と嗜んでいると、美沙斗は静かにこちらを向き、口を開いた。

 

「美由希はどうかな?」

「成長具合なら今夜、確かめられたと思いますけど?」

 

 剣士としての成長具合ならば、夜の鍛練を共にした美沙斗がすぐに理解できるだろう。正規の御神流習得をした美沙斗ならば『御神の剣士』としての美由希がどのぐらいの域に達しているかは理解できるはずだ。

 

「そっちもだけど、学校とか………………ね」

 

 その言葉に恭也はなるほどと思った。母親として最も知りたいのはきっと普段の事。

 剣士などという殺伐としたモノの事ではなく、普通の女の子としての部分。

 

「学校………………というか家でも本の虫ですよ。後はガーデニングをしたり、那美さんと出かけたり。そう言えばこの前――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アルコールのお陰で恭也の口は普段よりも軽く、普段は口にしない美由希を褒める言葉も幾度も出てきた。

 その言葉を聞くたびに美沙斗は嬉しそうにうなずき、笑顔を浮かべていた。

 

 その笑顔をもっと見たいと恭也は思ったが、偽りを口にすることだけはしなかった。そんな事をしても美沙斗は喜ばないし、恭也も後々困る。

 酒がまわった頭でもそれは理解できた。

 

「ありがとう。君がいてくれるから美由希は普通の女の子としても生きていられるようだ」

「まさか……俺が美由希にできる事は精々剣を教えるだけ。それだけです」

「違うよ」

 

 間違った答えを口にした子供を窘めるような母親の表情で美沙斗は首を振った。いや、様なではなくまさしく母親そのもので。

 

 その表情に恭也の胸は高く鳴った。その慈愛に満ちた表情はかつてを思い出させる。御神家が滅ぶ前の事を。

 あの時と変わらない表情。父がいて、祖母がいて、血のつながった家族という者が確かに存在していたその世界の中にあった表情。

 

 何も変わっていない。美沙斗の表情も、美沙斗の笑顔も、そして…………己の気持ちも。

 

 憧れを伴った美沙斗への思慕。それは今も恭也の胸の中にある。

 そして、それよりも強い、美沙斗への異性への思い。

 

 

「美由希はいざとなったら君の名前を呼ぶよ。私の名前じゃなくて君の名前を。君が傍にいるから、美由希は安心して進める。剣の道を、ただの女の子の道を」

「それこそかーさんのおかげですよ。俺は何もしていない」

「そうかい? ふふっ、ならそういう事にしておくよ」

 

 可笑しそうに口元に手を当てて笑う美沙斗。手によって生まれた影、その中でもくっきりと見える美沙斗の笑顔。星明かりの魔力はまだ止まない。

 

「それでもこれだけは言わせてくれ。君のお陰で私の願いも静馬さんの願いも叶った。本当にありがとう」

 

 その言葉を嬉しく思うと同時に恭也の胸に痛みが走った。

 静馬と口にした時の美沙斗の表情は初めて見た亡き人への想いが籠っていたから。

 

「その言葉はかーさんやフィアッセ、なのは、昌、レンに言ってあげてください。無論、美由希自身にも」

「そうかい」

「はい」

 

 

 静寂が二人を包む。だが、それで恭也の心地は悪くなることはなかった。話すことよりも沈黙する事の多い恭也としては静寂の中でふたりゆったりできる方が好ましい。

 静寂は好むが…………静寂は雑念を呼ぶ。

 

 静寂している為に思い起こされたのは静馬と口にした時の美沙斗の表情。

 星明かりの中で一人酒をたしなんでいた時よりもずっと綺麗で、慈愛に満ち、感情の込められた表情。

 

 そんな表情を死して尚、向けられている静馬を――――――――――羨ましいと心の底から恭也は感じた。

 

 

 

 

 

「美沙斗さんは…………今でも静馬さんの事を――――

 

 それ以上は口にできなかった。その先に続く言葉を明確に口にしたくなかった。

 こんな言葉は紡がなければよかったと思う心があった。聞かなければ、尋ねなければ分かる事はないこと。

 聞いてしまえばこの胸の中に自覚したばかりの想いが潰えてしまう。だが、今をおいてほかに尋ねる時はないとも、別の心が言っていた。

 

「愛しているよ」

 

 きっぱりと、明確にその言葉は返ってきた。

 その言葉が美沙斗の口から紡がれる事は恭也も理解していた。否、その言葉以外を美沙斗の口から紡いでほしくなかった気もした。

 愛していないなんて口にされたら美沙斗が何のために復讐に走ったのか理解が及ばなくなる。

 

 

 だが、安堵はできなかった。想い人はすでに他の人の女性だという現実を、改めて突き付けられた。

 未亡人だからなどという言葉は使えない。美沙斗は静馬が亡くなって尚、静馬の事をそう思っているのだから。

 

「でも――

 

 続く言葉に恭也は思考を止めた。止めざるを得なかった。

 なぜなら、その先には自嘲めいた泣きそうな笑みを浮かべる美沙斗がいたから。

 

「今の私を見たら静馬さんは嫌いになるかもしれないね。復讐に走り、娘を放った私なんかを」

 

 泣いているとして思えなかった。瞳に湿り気のある美沙斗は、

 

 美沙斗が己に下した評価は、美沙斗自身を傷つけていた。己の罪状を理解しているからこそ、胸を貫く。

 

 

 瞳を濡らし、悲しそうに自嘲する美沙斗は星明かりの中でも美しかった。今まで見たどの表情よりも美しく、愛おしい。

 だが、そんな悲しそうにさせたくなかった。笑っていてほしいと思った。

 

 

「俺が静馬さんの立場なら嬉しいです。復讐に走られるほど愛されていたのなら」

 

 

 一世一代の言葉だった。遠回しすぎて言葉に乗せた想いは伝わりきらないだろうが、それでも恭也の精一杯の想いを乗せた言葉。

 胸の内にある想いをありったけ乗せた言葉は――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――――――届きはしない。

 

 

 

 

 

 

「こんなおばさんをからかうものじゃないよ」

 

 きょとんとした後に、美沙斗は苦笑しながら詰まらせる事なくそう答えた。

 

 先ほどまでの表情とは違って少しばかり嬉しそうだった。その表情を見る事ができて少しだけ――――報われた気がした。

 

 

 

 だが、やわらかな拒絶には変わりない。

 

 絶対的な年齢差があると。そういう対象に見る事はできないと暗に告げていた。

 『おばさん』といって自分を卑下しながらも、その言葉は恭也を未だに子供として見ているという証左。

 美沙斗との男女としての距離は果てしなく遠い。

 

 

 

 

 

 

 淡いが故に具体的な言葉を紡げず、ついさっき自覚したが為に強く出られない。

 

 言葉を容易く紡げば心地いい関係も終わりを告げ、ぎこちない関係が始まってしまう。

 恐ろしいのだ。異性として好きだと告げれば、今までの関係には容易く戻れない。それが叔母である美沙斗なら尚更。

 

 今まで築き上げてきた関係。幼いころの思い出話さえ………………出来なくなるかもしれない。

 

 

 

 猪口に残っていた酒を一気にあおり、腰を上げる。酒が回りすぎたのか立ち上がって少し、足がふらついた。

 

「ん? もう寝るのかい?」

「えぇ、今日はこれで。これ以上美沙斗さんを見つめていると、惚れてしまいそうですから」

 

 これ以上、美沙斗と己の距離の遠さを自覚したくなかった。終わりを知ったなら潔く立ち去るべきだ。さらにのめりこんでしまってはあまりにも惨めだ。

 

 

 先ほどと同じようにキョトンとした後、美沙斗は笑った。その笑みは先ほどと変わりはなかった。

 

「今日は随分と饒舌だね」

「酒が入ってますから…………………………最後に一つだけ、静馬さんをこれからも?」

 

 この言葉を聞くのは己にとって致命的。だが、聞かずにはいられない。

 答えは知っている。どんな答えが返ってくるのかなど容易く予想がつく。だが、これを聞かねば終われない。

 

 

「あぁ、私が死ぬその時まで愛し続けるよ」

 

 清々しいほどにためらいもない返答。零れ落ちんばかりの笑顔だった。今日一番の美沙斗の美しい表情だった。

入り込む余地は初めからなかった。幼い頃にあこがれたその時と同じように今でさえ、美沙斗と静馬の間に恭也は入れない。

 それが嬉しくもあり、悲しくもあった。

 

 何も告げず背を向けて、縁側を後にする。

 

 

 

 

 

 

 

 ついさっきは勘違いをしていた。憧れと恋を同じように感じてしまった。何よりも己は静馬の妻である美沙斗にそういう想いを抱いた。そう、恭也は心に言い聞かせた。

 言葉よりも尚鋭く突き刺さる美沙斗の態度に、恭也はこの芽生え始めたばかりの恋に終わりを告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 寝起きに少し頭がぼやけた。昨日の酒がまだ体の芯に残っているような気がしたが、起き上がってみると思っていたほどではない。

 

 だが、頭にまだ少し霞がかかっているかのように思考はまとまらない。ならばと台所に足を向け、蛇口を捻りコップを水で満たした。

 一気に煽り、一心地つく。喉元を冷たい水が流れていく感触が酔いを醒まし、昨夜から未だ胸の奥に残るあやふやな心を落ち着かせた。

 

 

「おはよう、恭也。昨日は楽しかったよ。また一緒に飲まないかい?」

 

 突如かけられた声。

朝霞がわずかに立ち込める窓辺で光を背に微笑む美沙斗を見て、未だ眠りの覚めぬ心は鳴った。昨日よりも高く、高く、

 

 

 

 高町恭也の恋はまだ…………終わらない。

 

 

 

 


後書き

 

 浩さん、美姫さん、1000hitおめでとう御座いますっ!!

 えぇ〜と記念なのになんでこんなSSを贈ったかについては浩さんにはメールで送っています。読者の方に関しては考えてみてはもらえないでしょうか? 今回のSSは物語自体に意味を持たせていますので、読者の方には少しばかり読み取ってもらいたいのです。

 

 

 このSS自体はきっと美沙斗と恭也だからこそできる話だと思います。

 精神的に大人でありながらも子供の部分も持ち合わせている恭也とその意中の相手であり血のつながった美沙斗の二人だからこそ。

 

 恭也の心の葛藤と、格好よくありながらも情けない恭也の姿を楽しんでいただけたら幸いです。

 

 この後、恭也はその想いを大きくさせすぎて告白してしまうのか、それとも美沙斗に想い馳せながらこの心地いい関係を続けるのか、それとも美沙斗を諦めて他の女性に目を移すのかは読んでくださった皆様の心の中で物語を紡いでいただける嬉しいです。

 

 書いちゃうと『硝子越し』のようになってしまいそうですから。

 

 

 さて、言い訳がましくて申し訳ないですが現実への対処で『Schwarzes Anormales』が全く進んでいません。申し訳ないです。年始にあんな事いったのに。

 次がいつ投稿できるか少し分りませんが、なるべく早く更新できるようにします。

 

 では、また何時か。





ありがとうございます!
美姫 「一千万を突破し、これからも益々頑張っていきます」
と言うわけで、今回は記念に短編を頂いてしまったわけだが。
美姫 「本当にありがとうございます」
恭也と美沙斗のお話。こういう静かな空気の話も良いね〜。
美姫 「本当に。恭也の秘めた想いと美沙斗の変わらぬ想い」
楽しませてもらいました。
美姫 「それでは、また」
ではでは。



▲頂きものの部屋へ

▲SSのトップへ



▲Home          ▲戻る